2005年10月21日

浦添ようどれ

浦添ようどれ

写真は復元された浦添ようどれの入口です。

浦添グスクに住んだ英祖王と尚寧王の墓があります。

英祖王の墓の調査では沖縄伝統の風葬だけではなく、火葬された骨も見つかりました。

古代の沖縄には仏教思想が深く根付いていたことがわかります。

それと、ようどれの石垣は、かつてないほど正確に復元されました。

その精巧さは復元された首里城にまさります。

あまりのできばえに、見たときは感動に震えました。


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Posted by とらひこ at 08:25│Comments(4)沖縄島中部
この記事へのコメント
「ようどれ」の意味が解からなかったのですが、たまには自分で勉強しなくては・・・検索すると「死者の世界」とありました。
Posted by パッションフルーツ at 2005年10月22日 22:40
「ようどれ」は「佐敷ようどれ」という佐敷にある第一尚氏の墓にも使われていますよね。

浦添ようどれに入る前に「くらしん御門」という自然にできた岩の割れ目がかつてあったんですが(アーチ門の前の谷間になった通路です)、戦争で上の岩盤は壊れていまいました。そこが現世から別世界に通じるトンネルと考えられていたようです。

まさに死者の世界にふさわしい場所ですよね。
Posted by とらひこ at 2005年10月24日 19:08
尚寧さんは、なぜ玉凌に葬られなかったのか…。その事に関して、こんな事を聞いた覚えがあります。なんかの本で読んだんですが…。 尚寧が在位ちゅうの1609年、琉球は薩摩の支配下におかれ、その事を恥じた尚寧は
自分には玉凌に葬られる資格はない
と、遺言でいった
ために、尚寧は玉凌に埋葬されずに浦添ようどれに葬られた…というものです。さらに、「ようどれ」という言葉は、尚寧が玉凌に葬られず、他の墓に葬られた事から、
世が衰えた…すなわち「世衰え」からきた言葉だ…という話も聞きました。

尚寧さんもいろいろ苦労したのね…。なんて思っていた私ですが、 「沖縄歴史物語」によると、尚寧の遺言の話は実際にあったものではなく、ましてや「ようどれ」の語源についての噂は、ガセネタに過ぎない…という事でした。 ほんとのとこ、どっちが正しいのか…。歴史って面白いですね!
Posted by みやらび at 2006年04月03日 21:34
>みやらびさん

尚寧が浦添ようどれに葬られたのは、『沖縄歴史物語』にあるように、やはり地元だからなようです。彼は浦添尚家の出身でしたから。ここらへんのいきさつは僕の別のブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」の「歴史の闇に葬られた王子」に書いてあります。
Posted by とらひこ at 2006年04月04日 21:25
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